為政者にとって権力を自分に集めるのに都合の良い形は三角形(▲)。
林立するより1つの大きいものの方が楽。
そして宗教は心の弱みに甘い言葉で囁いて依存させる強力なツール。
アメリカのユダヤ教徒はアシュケナジーと言われるのは…イギリスから離れた人たちだから、かな。
イギリスはキリスト教から独自のキリスト教を作ってしまった国。
今は分からないけれども当時は清教徒がイギリスに多かったのでは?(清教徒革命があったから)
だから逃げ出した人たちは清教徒では無いイギリス国教に近いのかも…。
彼らにとっては新天地アメリカ大陸は例えばカナンの地に、例えば自分たちは住むべきところを追われてしまったユダヤの民に心境的に例えたのかな…。
金貸し業はユダヤ人だと差別的な扱いを受けてしまったり、ひいてはお金持ちも侮蔑されていたのでは…?
(人は自分に無いものを羨ましがって妬み、どうしても手に入らないのならいっそ悪にしてしまえ、と考える生き物だから)
ユダヤ金融資本とか言われる人たちが寄り集まったのも、自分たちを守るためなのかもしれない。
お金は沢山ある、自分たちにより良い世界に暮らしたい。
そうなったら、お金の動く先は権力、宗教、この辺りから動いて後に様々な分野へと広がって行ったのだと妄想してしまう。
所属するそれぞれの人が得意とする分野があったろうし、宗教的な結束があればこそ裏切る事はかなり少なかったのでは…?
共通の目指す世界を創る目標をその中のそういうのを考えるのが好きな人達が考えた。
自分たちを故郷を追われたユダヤの民となぞらえているから聖書に拠っているのは必然なのかもしれない。
聖書は、あー…とある団体の考え方によると、科学書なのだそう。
信仰と計画と実行が合わされば、聖書はあっという間に彼らにとっての計画書になっただろうし、(この辺りの考え方はゲーム『オーディンスフィア』(おでん(ワクチンの隠語)の恐怖(笑))に出会っていたから得られた着想なのかもしれない)それを知らない他のキリスト者にとってみれば聖書は予言書に映るのでは…?
世界中にキリスト者に連なる人たちがいて、その方達はほぼ聖書を信じている、というよりも信仰している。
同じ物が基にされているのなら合致性は高くなるはず…だよなぁ。
どちら側も信仰しているのだから、なんだか始末に負えない。
できれば、ボタンの掛け違えの重なりによって大きくズレた世界は、そろそろリセットしないと服としてもダメになってしまいそうで…。
掛け違えているのなら、恐らく1つひとつ外して、1つひとつ正しい場所にはめる必要があるのだろう…。
ちゃぶ台返しからのやり直し、は、なんだか都合が良すぎる気がする。
都合が良いのは、それを願う人たちの都合に合わせて、『だったらいいのにな』という想いが『に違いない』に新化してしまったから…なのかもしれない。
…かといってなぁ…説教したところで誰も聴く耳は持たないからですね…。
他人の戯言よりもどうやったって自分が信じている、信じたい世界観がその人たちにとっては最優先なものだから。
いろんな分野の人たちが、現在の定説が黄金比のレシピにたどり着いていない試行錯誤の過程だということに自分たちで気が付いて、定説やそれの出来た背景や経緯などを精査して1つひとつ修正していってもらうしか無いように想ってしまう。
あとは…広げ過ぎた風呂敷をそれぞれの団体がどう畳むことができるのか…にかかっている気がする。
どうやってもね、発展しすぎたシムシティはゴジラボタンが必要とされるらしいし、宇宙とか、未知の外的要因があると風呂敷畳には便利みたいですね、ゲームを見ている限り。
ゲームは悲劇と苦難の連続で、だからこそ目標が出来たり喜びが存外に大きく感じたりするのかもしれないけれども、そればっかりだと、こう…食傷するなぁ…個人的に。
かといって自動のゲームは無関心になって興味が失われるから好きじゃ無いし、作業ゲーもちょっとなぁ…。
仕組みが見えると作業になってしまうのが興醒める。
形として成果が残るものが好ましいけれども、廃課金を求められるのは、どうかしているように思う。
私がケチだからだろうか…。
日食イベントで何故か日本の高級ホテルが予約がいっぱいらしくて、日本で儀式が行われるのでは無いか、という声もあるようで…ぶっちゃけどうなのでしょうね。
滅多に無い天体イベントだから観たい人はワクワクして見るだろうし、それを不吉だと信じる人は難を逃れるために移動するのでは?
平安時代の貴族が何をするにも凶の方位を避けたように…。
結局、同じものを見て、どう受け止めるかはその人のフィルター次第…なだけのような気がする。
だけれども…個人的には、穏やかな私の生活を乱さないで欲しいものだなぁ…。
一応、心臓が弱くなっているものだから…。
妄想(もう、そう)なんだからね。 ・×・;